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「Contrition」

本曲は5年前ほど前に、クリスマスの楽曲コンテストへ応募するために書き上げた作品である。コンテストの賞金は100万円ほどで、家賃滞納がデフォルトであった自分は、それがためにある意味脇目もふらず本曲を書き上げたのであるが、最後の段で、応募書類を書きつけるのが面倒になってしまい、結局お蔵入りさせることとなった。

 

この曲はもともと16ビートで書かれていたが、それを4ビート(スウィング)に書き直したのは、本曲の次に収める予定で、はたしてそうなっている「ひさんなクリスマス」とのリズムやテンポ面での対比を図った結果だ。ミュージカルで聴けそうな2ビートの楽観的な曲調が、ややシリアスな次曲に繋がる場面はとても気に入っている。

 

管楽器の編成は、毎回違うことを試して今後に備えようと言う段階であるので、今回はトランペット2名とテナーサックスとトロンボーンを各1名という編成にした。実際に録音してみると、軽く華やかに録れて、またどこかで用いてみたい編成を1つ知ることとなった。

 

左チャンネルからギターの即興らしきフレーズが聴こえるが、アドリブでは無くすべて譜面上に決定されていたものだ。この方法では、一聴して奔放なアドリブの様相を見せ、二聴すると隙が無いことに気づかせる、そんな演奏を聞かせる名手の誰かを召喚することができる。リトナー風、ジョンスコ風…ロックギタリストがジャズに手を染めるも、微妙に音が外れており、しかしカッコいいのでアリ風など…なんでもできるのである。

 

「ひさんなクリスマス」

 本曲は寄せ集めの一曲で、3年前の冬に作曲した部分と、小学生の頃寝ている間に作ったサビとを組み合わせたものである。平凡な小学生の発想というだけあって、サビのメロディーはドミソの和音を喚起するものだが、あれから十数年を経て、レファラドの響きが添えられたことで、サビの冒頭の音符は5thから垢抜けて11thの役割を得ている。聴いてみると、単純なメロディーでも和音にちょっと鋭く響いているのが分かる。

 

夢で聴いて以来「ひさんなクリスマス 仲良くしようよ」の節とは長い付き合いがある。もとはハ長調でその単純さが強調されているメロディーと率直すぎて滑稽な詞とを、早いところ忘れたいとすら考えていたのだが、それを作品とするに至ったのはネタ切れが原因である。

 

そんなわけで「ひさんなクリスマス」は私にとって情けない楽曲なので、そういったムードに拍車を掛けるべく、ソリを引くお馬さんが走ってる感じの3連符のフレーズをあちこちへと配置した。

 

この、リズムと音型を共通としたフレーズは曲中の10数カ所に点在するが、1つとして同じ響きのものは無い。いちいち楽器の組み合わせやボイシングを変えたのは、繰り返される日常の動作であっても、厳密には一度として同じようには行われないことを、音楽に当てはめたときに、作品はいくらか生き生きとしてくれるんじゃないかと考えたからだ。並べて比べれば分かるが離れていると気づかない程度の違いが、楽曲にささやかな変化と展開をもたらしている。

 

「Gelatin」

紙の上に記号を書き並べるのは、例えば一方の音がこう走っているから、もう一方をこうしようなどと、そんな風な工夫を連ねる作業である。そういうときに、それだけを考えているのかと言えば、案外、明日はカレーを作るので材料に何を使おうか、という様な横道にそれたことが頭の中心だったりする。ささやかな期待感が控えめに聴こえる一曲である。

 

「冬を数えて」

 この曲はテンポが変動するため、レコーディングでは演奏者にそれなりの労力を費やさせる場面が少なからず見受けられた。これはある程度想像していたことだから、演奏者が間違えても、こちらは気楽に、あはは、などと笑っていられたが、演奏者は1小節でテンポが10なだらかに変化していくのに追従、ではなく並走しなければならないのである。これはなかなかのプレッシャーだったに違いない。

 

音楽はメトロノームを知らずに生まれ、ベートーベンの時代に至るまでその束縛とは無縁だったのは周知の如くである。今は技術的に音楽を横にも縦にも均一にすることが容易になったものだから、安易な理由からそれが利用され生まれた音楽はきっと少なく無いだろう。果たして、それが為の効果を生むために精密な律動に支配されるのかと、私自身、疑問を抱くのである。

 

というわけで、今後試したいことの一つに、ポップスの律動をもっと自然に呼吸させるということがあり、それに向けての実験として、ささやかなテンポチェンジを取り入れたのが本曲である。私がいずれ作る作品の、前身の一つだと思って聴いてもらいたい。

 

「街の宝石」

冬に外出するなど考えられないが、しかし想像の中だと雪は冷たくないし、電飾は一つも欠けずに輝き、人々の血色は良好で、真冬の張り詰めた空気にしかめ面を見せることなども無く、決して注意深い誰かを不幸にしたりはしない。そういった都合の良い冬の街を散策する印象から書き上げた本曲は、現実味の無い呑気な一曲となった。

 

自分の曲でありながら、自分の曲では無いと感じる。他の曲にしても、それらが現実に根ざした雰囲気を欠いているのは、作曲や編曲をオートマティカルに行ったことへの解答だと考えている。

 

本曲には、時代物のシンセサイザーが多数用いられている。こういった音色は現在の価値観からすると、少々安っぽい側面があり、本来ならその部分を生かしてミックスされるべき素材と考えていたが、やはりスタジオに持ち込むと当たり障りの無さを出すことが、目的とされるため今回も課題が残った。かといって、80年代にボブ・ジェームスが、シンセ数台と宅録で制作をしたアルバムの様な、極端に軽量でありながら高級感と共存したサウンドは、現在となっては制作に珍しい機材と手間を必要とするだろう。何より音楽家は執着を持ち合わさねばならない。

 

課題こそが次作への推進力となっているようだ。それを拠り所にした創作は純粋とは呼べない。しかし、作家が何度も同じテーマを扱うように、私はラジオでタイトルも告げられずに流される様なシンセサイザーミュージックをこの先も作り続けることだろう。

 


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